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#史料批判
「史料批判」に関連する記事 13 本。
分析
『逃げ上手の若君』完結記念で出た古文書、尊氏の側近が手紙で「自分に人望がない」と自覚してたって本当ですか?
2026年10月に公開された饗庭命鶴丸書状は、文和2年(1353)5月12日付で、北条時行が処刑される8日前の鎌倉を尊氏...
分析
信長は記録だらけのはずなのに、『信長公記』って書いたの側近の一人だけなんですか?
織田信長の一代記の基本史料『信長公記』は、旧臣・太田牛一がほぼ一人でまとめた。厚い記録は、出所が一つなら薄い記録と同じ弱...
分析
「悪女ドレゲネ」は翻訳のたびに盛られたのか。ペルシア語の原文から同じ一文を追いかけて、語ごとに測った
ドレゲネへの「理性が欠けている」という評は、ペルシア語から英語、トルコ語、日本語へと訳されるうちに濃くなったのか。同じ一...
分析
司馬遷は宮刑を受けてから『史記』を書き上げたと言いますが、記録を残す役目って、そこまで代償の要る仕事だったんですか?
司馬遷の『史記』は、宮刑という刑罰のあとに完成した。では記録を残す職掌に就くと、何を払うことになるのか。太史公自序・報任...
分析
淀殿を「悪女」にした話って、大坂の陣で勝った徳川側が書いたんですか?
淀殿が「悪女」とされる根拠は、彼女の死後数十年から二百年近くかけて江戸期の軍記物が積み重ねたもの。生きていた頃の記録には...
分析
鏡に向かって3回呼ぶと出てくる方じゃなくて、実在した女王の「ブラッディ・メアリー」。あの呼び名、最初に刷ったのは誰なんですか?
「ブラッディ・メアリー」という呼び名は、本人の死後5年、しかも敵対していた宗派の出版物から広まった。呼んだ人ではなく、刷...
分析
武則天は『旧唐書』だと化け物、『新唐書』だと中宗のオマケ、1962年の中国だと英雄にされてるんですが、結局どれなんですか?
武則天への評価は、退位から1300年余り、書き手が変わるたびに引っくり返ってきた。945年の『旧唐書』は彼女を化け物と書...
分析
北条政子が「尼将軍」と呼ばれる根拠の『吾妻鏡』、あれ書いたの北条の身内だったんですか?
北条政子の実像を伝える最大の史料『吾妻鏡』は、彼女の死から70〜80年後、北条得宗家の全盛期に、北条一門と縁の深い官僚た...
分析
呂后も武則天もカトリーヌ・ド・メディシスも「悪女」なんですが、書かれ方までテンプレが同じなのはなぜですか?
呂后は人彘、武則天は簒奪者、カトリーヌ・ド・メディシスは毒殺者。時代も大陸も違う3人の「悪女」評を、原文まで遡って比べた...
分析
権力争いに一度も出てないのに、息子4人が全員トップになった女がいる
モンゴル帝国の跡目争いに、彼女は一度も自分の名前では出てこない。なのに気づけば息子4人が皇帝・イル・ハン・大ハンの座を占...
分析
『逃げ上手の若君』の北条時行、数え7歳で鎌倉を落としてるの普通に考えて神輿でしょ
北条時行は数え7歳前後で鎌倉を落とし、以後18年で3回奪還した。常識的に考えれば担がれた神輿だが、担いだ側の記録は残り、...
分析
『天幕のジャードゥーガル』を「モンゴル版・大奥」だと思って見ると、史実の方が無茶苦茶だった
皇帝が死ぬと、皇后も次の皇帝が決まるまで国を運営できる。それが例外ではなく制度として用意されていた帝国の話。「悪女が帝国...
分析
「悪女ドレゲネ」はペルシア語の記録にしかいない。モンゴル語の記録には、一行しか出てこなかった
帝国を5年間動かした皇后が、モンゴル語の記録には一箇所だけ登場する。数えて、比べて、東西の「悪女」と並べて、それでも彼女...