この記事について
シリーズ「記録の空白」の1本です。扱うのは「淀殿は本当に悪女だったのか」ではなく、「悪女という評価が、いつ・誰の手で書かれた記録から来ているのか」。前回の北条政子は記録が厚すぎて書き手の身内感が見える例でしたが、今回は死後の年数そのものが証拠になります。
淀殿が生きていたあいだ、彼女を「淀君」と呼んだ同時代の記録は1件も存在しない。「淀殿」も「淀君」も、生きている間には使われなかった呼び名だ。
大坂夏の陣で豊臣秀頼とともに自害した淀殿(茶々)は、日本史上もっとも「悪女」のレッテルが定着した女性の一人だ。強情で秀頼を甘やかし、和睦を拒んで大坂を滅亡に導いた——このイメージは多くの人が共有している。だが、その根拠を1つずつ史料まで遡ると、奇妙なことに気づく。彼女を直接知っていた人間が書いた記録には、この悪女像がほとんど出てこない。
淀殿の「悪女」は、記録が書かれた年数で説明できる
生きていた頃の記録では正室格として扱われ、死後まもない記録では実際に指揮を執る女性として登場する。決定的な悪評は、死後数十年から二百年近くかけて積み重なっていった。
生存中
「淀の方」「北の御方」。同時代人からは秀吉の正室格として扱われている。
死後46〜58年
『難波戦記』が編まれる。合戦記としての体裁で、これ以降の軍記の土台になる。
死後約180年
『絵本太閤記』刊行。淀殿が秘術で大蛇に変身する逸話まで加わる。
明治以降
坪内逍遥の戯曲を経て「淀君」が悪女の代名詞として一般に定着する。
NT Media結論: 記録の中身が変わったのではない。彼女について書く動機を持つ人間の側が、時代を経るごとに入れ替わっていった。
「淀殿」も「淀君」も、生きてる間は一度も呼ばれていない
まず名前の話をする。淀殿の実名は「茶々」。生存中の呼び名は居所の変化に合わせて「淀の方」「淀の女房」「二の丸殿」「西の丸殿」などと変わり、鶴松・秀頼の出産後は「御袋様」「御上様」「御台様」とも呼ばれた。冒頭で触れたとおり、いま最も一般的な「淀殿」も、かつて使われた「淀君」も、生存中の呼び名としては使われていない。
「淀殿」の初見は、彼女が死んだ翌年の元和2年(1616年)に成立した記録だとされている。そして「淀君」が広く一般に定着したのは、さらに遅れて明治時代——坪内逍遥の戯曲『桐一葉』が上演されて以降のことだ。
TIMELINE ── 呼び名と悪女イメージが動いた時期
1615年(慶長20年)
淀殿、大坂城で自害。生存中の呼び名は「淀の方」など
1616年(元和2年)
「淀殿」の呼称が史料に初めて現れる(死去の翌年)
1661〜73年(寛文年間)
軍記物『難波戦記』が編まれる。以後の軍記の土台になる
1797〜1802年(寛政9〜享和2年)
『絵本太閤記』刊行。淀殿が大蛇に変身する逸話まで加わる
明治時代
坪内逍遥『桐一葉』上演以降、「淀君」=悪女が一般に定着
さらに気になるのは、「淀君」という呼び名そのものの由来だ。歴史学者・二木謙一は1981年の論考「虚構の系譜」(『歴史と人物』11巻3号)で、こう書いている。
淀殿が淀君などというへんてこな名前をつけられ、悪女に仕立てられたのは、豊臣家を滅ぼした徳川氏時代の産物
── 二木謙一「虚構の系譜」『歴史と人物』11巻3号、1981年
歴史学者・小和田哲男はさらに踏み込み、「淀君」の呼称は悪女・淫婦というイメージとともに、当時の売春婦を指す言葉(「遊君」「辻君」など)と結びついて定着したと主張している。国文学者の田中貴子も同旨を述べている。
待つのじゃ。「君」がつくだけで売春婦と結びつくんか?それやと「〇〇君」って呼ばれとる人、みんな失礼な話にならんか?
そこは慎重に見る必要があるんです。実際、幕末に編纂された『徳川幕府家譜』では、家康の継室・朝日姫が「朝日君」、秀忠の継室・崇源院が「於江与君」と呼ばれています。つまり「君」がつくこと自体は、すぐさま蔑称と決まるわけではないんですよ。問題は「淀君」の場合、悪女イメージと売春婦を指す言葉が同時にセットで結びついた、という組み合わせの方なんです。
生きていた頃の記録には、何て書いてあったのか
では、彼女を直接知っていた人間は何と書いていたのか。史料上、淀殿が秀吉の妻になったことが確認できる最初の記録は天正14年(1586年)10月1日の『言経卿記』。以後の同時代記録を並べると、扱いは一貫している。
| 時期 | 記録 | 呼ばれ方・扱い |
|---|---|---|
| 1586年 | 『言経卿記』 | 秀吉の妻となったことが確認できる最初の記録 |
| 1592年ごろ | 佐竹家臣・平塚瀧俊の書状 | 「よとの御前様」「御台様」 |
| 秀吉存命中 | 太田牛一『太閤さま軍記のうち』 | 「北の御方」「北政所」 |
| 秀吉没後 | 佐竹家に伝わる文書 | 高台院とともに「両御台所」 |
秀吉の正室は高台院(寧)とされるのが通説だが、生存中の史料で淀殿を側室・妾として記録したものは、一夫一妻制をとる宣教師ら(キリシタン)によるものしかない。同時代の日本側の記録は、彼女を正室に近い立場として扱っていた。悪女どころか、格下げの記述さえほとんど無い。
大坂の陣のあと、勝った側が書いた話
淀殿の悪評が集中して現れるのは、大坂の陣で彼女が死んだ後の記録だ。しかもその年数は、時代が下るほど長くなっていく。
| 書名 | 成立・刊行 | 死後の年数 | 内容 |
|---|---|---|---|
| 『難波戦記』 | 寛文年間(1661〜73年)。1672年の三宅可参(衝雪斎)序の版が普及 | 約46〜58年 | 大坂の陣を合戦記として描く。真田信繁が「幸村」と呼ばれる最初の記録でもある |
| 『難波秘事録』 (難波戦記の系譜) | 江戸期 | — | 淀殿を「大淫好色、恥を知らざる婦人」と描き、前田利長・清韓長老との不倫関係まで記す |
| 『豊内記』 (『秀頼事記』) | 江戸期 | — | 処刑された豊臣秀次の亡霊が淀殿の枕元に立ち、恨みを訴える逸話を記す |
| 『絵本太閤記』 | 寛政9〜享和2年(1797〜1802年)刊 | 約182〜187年 | 淀殿が「金龍の法」という秘術で若さを求め、大蛇に変身する逸話。最も過激な描写 |
出典:難波戦記 - Wikipedia/国立公文書館デジタルアーカイブ「難波戦記」/和樂web「淀殿は本当に悪女だったのか」(堀新・井上泰至編『秀吉の虚像と実像』笠間書院、2016年、に基づく記事)。
いや、大蛇に変身は盛りすぎじゃろ。さすがにそこまでいくと誰も信じとらんかったんちゃうか?
信じられていたかどうかは別として、読み物としては広く出回っていたんです。ここで大事なのは順番なんですよ。悪評は彼女が死んだ瞬間に生まれたのではなく、46年、58年、182年と、時間をかけて段々と過激になっていっている。しかも書いているのは、豊臣を倒して政権を握った側が安定して統治していた時代の人たちです。
なお、「秀頼をうまく導けなかった」という非難自体は、実はもっと早い時期の読み物にも現れる。歴史研究者・渡邊大門はコラム「淀殿に『悪女』のイメージがついたのは徳川史観の影響だった」で、大坂冬の陣後に刊行された仮名草子『大坂物語』が既にこの筆致で淀殿を描いていたと指摘し、「大坂の陣後に書かれた編纂物(二次史料)で淀殿を評価すべきではなく、同時代史料を用いることが重要である」と述べている。渡邊は「同時代の一次史料には、ことさら淀殿を悪しざまに描いたものがないのではなかろうか」とも述べている。
和睦を邪魔したのは、本当に淀殿個人だったのか
大坂の陣そのものに戻る。冬の陣(1614年)で大坂城が砲撃を受けたあと、『駿府記』の同年12月15日の記事には、女性たちが意思決定を担っているために和議が遅れている、という趣旨の記述があり、淀殿が実質的な指導者とみなされている。
ここで見落とせないのは、『駿府記』は徳川家康の駿府に伝わった記録だということだ。敵側の記録が、淀殿の決定権そのものを疑っていない。同じ冬の陣では、『当代記』に、淀殿が武具を着て武装した女房数人を従え、番所の武士に声をかけて激励していたという記述も残っている。
女中の仕切りにより和議が遅れている
── 『駿府記』慶長19年12月15日条(要旨)
これは「淀殿が愚かだから話がまとまらない」という記述ではない。女性陣が実際に交渉の決定権を握っていたことを、敵側の記録が前提として書いているだけだ。決定権があったことと、その決定権の使い方を後から「愚か」「淫奔」と評価することは、別の話のはずだ。
待て待て。武具着て武士を激励しとる人が、なんで「和睦拒んで身を滅ぼした無能な女」って話になっていくんじゃ?現場におった記録の方が、むしろ普通に指揮官っぽいじゃろ。
そこがねじれてるんですよね。同時代の記録は「決定権を持っていた」という事実だけを書いていて、そこに善悪の判断をほとんど加えていないんです。「愚か」「淫奔」という評価がくっついてくるのは、さっきの表2にあったような、もっと後の時代の読み物からなんですよ。
黒百合の逸話 ── 「悪女」の証拠とされた話は、今は信じられていない
淀殿の性格の悪さを示す具体的な逸話として長く語られてきたものの1つに、正室・高台院との対立話がある。『絵本太閤記』『慶長小説』には、佐々成政から珍しい黒百合を贈られた高台院が淀殿を招いて茶会を催した数日後、淀殿が催した花会では黒百合が他の花とともに無造作に活けられていて、高台院が恥をかいた、という逸話が記されている。
だが、この逸話は現在では信用できないと考えられている。近年の研究では淀殿と高台院は特に対立関係にはなかったとされ、2人の関係の再検証が進められている。従来の通説は、後世の淀殿を悪女とみなす風潮によるところが大きいと考えられている。
| 旧来の通説 | 近年の研究 | |
|---|---|---|
| 高台院との関係 | 対立関係。黒百合の逸話で恥をかかせた | 特に対立関係にはなかったとされる |
| 逸話の出所 | 『絵本太閤記』『慶長小説』(江戸期の読み物) | 史料的に信用できないとされる |
| 通説が広まった背景 | 逸話がそのまま史実として語られてきた | 後世の「淀殿=悪女」という風潮によるところが大きいとされる |
では、大坂の陣の話は誰の責任なのか(本稿仮説)
ここまでの材料を並べると、説は大きく3つに分かれる。
THEORY CHECK ── 和睦拒否・大坂落城の責任は誰にあるのか
| 説 | 中身 |
|---|---|
| 悪女説(通説) | 淀殿個人の強情さ・判断ミスが和睦拒否と落城を招いた |
| 集団指導制説 | 意思決定は淀殿一人ではなく、大野治長ら重臣・女房衆の合議で行われていた |
| 決定権あり・評価は後付け説(本稿仮説) | 淀殿(および女房衆)が実際に高い決定権を握っていたこと自体は、敵側の同時代記録からも支持される。だがその決定権の行使を「愚か」「淫奔」と結びつける評価は、勝った側が政権を安定させたあとの記録にしか出てこない。決定権の有無と、その評価は別の軸で動いている |
※ 淀殿に何らかの決定権があったこと自体を疑う材料は無い。疑わしいのは「その決定権をどう評価するか」という後付けの部分に限る。
反証条件を書いておく。 淀殿自身、または大坂城内の女房が和睦を拒んだ理由を語った、大坂の陣と同時代に成立した記録(徳川方・豊臣方いずれでもよい)が見つかり、そこに個人的な悪意や判断能力の欠如を示す記述があれば、この記事の見立ては弱まる。本稿が確認した範囲では見つけられなかったが、それは「無い」の証明ではない。
北条時行は記録が薄すぎて分からんかったが、淀殿は逆で、死んでから記録がどんどん増えとる。増えるたびに話が過激になるいうのは、これはこれで別の怖さじゃな。
淀殿に実際の決定権があったことまで疑う理由はない。ただ、その決定権が「悪女の強情さ」に見えるようになったのは、彼女が死んで半世紀近くたち、政権を握った側が安定して読み物を量産できるようになってからのことだ。記録が増えるほど像が濃くなる、とは限らない。増えた記録が、増えた分だけ死者から遠い時代の人間の手で書かれていることもある。
盛られる速さと、死んでからの年数はだいたい同じ速さで進むんじゃな。……わしにも覚えがあるぞ。揉め事の話は、その場にいた者ほど落ち着いとって、あとから聞いた者ほど色をつけよった。
編集部より
この題材で検索してくる読者の多くは「悪女ぶりの詳細」を求めている。それでも年数を数える角度を選んだのは、シリーズの芯が「誰が悪かったか」ではなく「誰が書けたか」だから。同じ理屈は、いまの記録が後の誰かに数えられる番にもあてはまる。
ソース
表記について
個別の古記録(『駿府記』『当代記』『言経卿記』など)は現存する原本に直接当たれておらず、本稿はそれらを引用・整理した二次記事(主にWikipedia)を通じて確認している。引用箇所・研究者名は本文中に明記した。
【同時代・研究整理】
- 淀殿 - Wikipedia — 呼称の変遷、『言経卿記』『太閤さま軍記のうち』『駿府記』『当代記』の引用箇所、二木謙一・小和田哲男・田中貴子・福田千鶴・跡部信・田端泰子の各研究の整理
- Yodo-dono - Wikipedia (English) — 悪女イメージが徳川政権下で形成されたという記述(Owada 1997・Kuwata 1972を引用)
【江戸期の編纂物】
- 難波戦記 - Wikipedia — 成立時期(寛文年間)と1672年版の普及
- 国立公文書館デジタルアーカイブ「難波戦記」 — 昌平坂学問所旧蔵の写本カタログ
- 太閤記 - Wikipedia — 小瀬甫庵『太閤記』(1626年)の成立事情
【研究・整理】
- 淀殿は本当に悪女だったのか(和樂web) — 『難波秘事録』『豊内記』『絵本太閤記』の描写(堀新・井上泰至編『秀吉の虚像と実像』笠間書院、2016年、に基づく)
- 「豊臣秀吉の妻・淀殿に『悪女』のイメージがついたのは、『徳川史観』の影響だった」(渡邊大門/Yahoo!ニュース エキスパート)
- 福田千鶴『淀殿 われ太閤の妻となりて』(ミネルヴァ書房、2007年)── 書誌情報(版元ドットコム)
- 堀新・井上泰至編『秀吉の虚像と実像』(笠間書院、2016年)── 書誌情報(CiNii)
参考文献・検証ログ
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参照は 9 本あります。監査はまだ保留で、公開前の確認が残っています。
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参考資料
- 参考記録は1件も存在しないja.wikipedia.org
- 参考コラム「淀殿に『悪女』のイメージがついたのは徳川史観の影響だった」news.yahoo.co.jp
- 参考Yodo-dono - Wikipedia (English)en.wikipedia.org
- 参考難波戦記 - Wikipediaja.wikipedia.org
- 一次国立公文書館デジタルアーカイブ「難波戦記」digital.archives.go.jp
- 参考太閤記 - Wikipediaja.wikipedia.org
- 参考淀殿は本当に悪女だったのか(和樂web)intojapanwaraku.com
- 参考書誌情報(版元ドットコム)hanmoto.com
- 一次書誌情報(CiNii)ci.nii.ac.jp