「記録の空白」シリーズはここまで、誰が記録を残せる位置にいたかを問うてきた。勝った側の宮廷で書かれた史書、身内が編んだ『吾妻鏡』、党派が刷った列伝。
ただ、その問いには一つ、まだ触れていない部分がある。記録を残す位置に立つこと自体に、何がかかったのかだ。この回は、その最も有名な例である司馬遷を、本人の文章から読み直す。
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辞められたのか、という疑問から始める
「宮刑を受けても書き上げた」という話は、たいてい美談として語られる。ここでは逆から入る。そんな目に遭いうる仕事を、なぜ続けたのか。辞める道はあったのか。
宮刑のあとも書き続けたのは立派じゃと思う。じゃが、わしが引っかかるのは手前のほうじゃ。記録係が危ない仕事じゃと分かっておるなら、さっさと別の役目に移ればよかったのではないか。
そこなんです。『史記』の最終巻、太史公自序によると、父の司馬談は天子の泰山の封禅に同行できず、その無念のまま亡くなる間際に、遷の手を取って「余死、汝必為太史(私が死んだら、お前が必ず太史になれ)」と言い残しています。辞める辞めないを選べる仕事、というより、家の務めとして渡された仕事だったように読めます。
もちろん、本人がどこまで自分で選んだと考えていたかは、この一文だけでは分かりません。
記録を残す仕事は、強い位置ではなかった
シリーズの前提は「勝った側が記録を残す」だった。では勝った側の宮廷で、実際に筆を執っていた人は強い位置にいたのか。司馬遷が任安に宛てた手紙(報任少卿書)に、本人の自己評価がある。
仆之先、非有剖符丹書之功、文史星暦、近乎卜祝之間、固主上所戲弄、倡優所畜、流俗之所輕也。
| 問い | これまでの回 | 司馬遷の自己評価から見えること |
|---|---|---|
| 記録を残すのは | 勝者の側 | 勝者に仕える職掌の人。職掌自体は、軽んじられる位置と本人が書く |
| 書き手の安全 | 問うていない | 李陵を弁護しただけで獄に下り、金で贖うこともできなかったと本人が書く |
| 書く動機 | 利害(編纂を命じた側) | 家の職掌の継承(自序)と、文章を後世に残したいという願い(報任少卿書) |
勝った側が記録を残す、と言うてきたが、筆を持つ人間が偉いわけではないのじゃな。偉い人の近くにいて、機嫌ひとつで危なくなる人が書いておる。
前の回までの見立てを、少し直す必要があると思います。記録を残す「側」と、記録を残す「人」は分けて考えたほうがいい。勝った側の利害が文章に入る道は、筆者が強いからではなく、筆者が弱いから開く場合もありえます。
ただ、司馬遷が実際に何かを書き変えたという話ではなく、あくまで立場の話です。
本人が名前を書いたところ、書かなかったところ
宮刑という刑は、本人のどの文章で語られているのか。ここは原文を並べて確かめる。
| 文章 | 原文の言い方 | 刑の名は |
|---|---|---|
| 太史公自序 | 太史公遭李陵之禍、幽於縲紲/身毀不用矣 | 書かれていない |
| 報任少卿書 | 詬莫大於宮刑/最下腐刑、極矣/佴以蠶室 | 宮刑・腐刑と書かれている |
| 『漢書』司馬遷傳 | 遷既被刑之後、為中書令、尊寵任職 | 「被刑」とのみ書く |
自序のほうは、自分の受けた災いを「禍」「身毀」と呼ぶだけで、刑の名前を出さない。名前が出てくるのは、友人に宛てた手紙のほうだ。
その手紙では、刑の重さを順に並べ、一番下に腐刑が来ると書いている。
太上不辱先、其次不辱身、……其次毀肌膚、斷肢體受辱、最下腐刑、極矣。
つまり公の著作である『史記』の序では伏せ、私信では最悪の恥辱として名指ししている。どちらが本心か、という話ではなく、同じ人が、書く場所によって語り方を変えているという観察だ。
代償を語っているのは、誰か
ここからは観察ではなく、本稿の仮説になる。
先に既存の見方を置く。『漢書』の班固は司馬遷伝の賛で、司馬遷を「良史の材」とした劉向・揚雄の評を紹介し、「其文直、其事核、不虛美、不隱惡、故謂之實錄」と書く。そのうえで、自身は「既陷極刑、幽而發憤、書亦信矣(すでに極刑に陥り、幽閉されて憤りを発し、書もまた信ずるに足る)」と述べる。書かれた記録の信頼を、書き手が払った代償に重ねる読み方だ。
一方、この「苦難のなかで書く」という型は、司馬遷自身が自序と報任少卿書の両方で、すでに用意している。
本人が自分で書いたのじゃから、いちばん確かな証言ではないのか。痛みを知っておるのは本人だけじゃろう。
痛みの深さを疑うつもりはありません。ただ確かめられるのは、「本人がそう書いた」ことと、「班固がその枠を受け取った」ことまでです。この代償の物語を語っているのは、本人と、本人の言い分を受け継いだ側だけなんです。
つまり代償を払った事実は、物語の外から裏づける記録が、今回確認した範囲には見当たりません。
本稿仮説: 司馬遷の代償は事実として重いが、「代償を払ったから記録が信頼できる」という読み方は、書き手本人が用意した枠を、後の読み手が受け継いで強めたものではないか。苦難の物語が付くと、その記録は内容の検証より先に、書き手への共感で読まれやすくなる。
・班固以前の評者が、代償と信頼を結びつけずに『史記』を評価していたと示される場合、「後世が強めた」という部分は成り立たない
書いた本は、どう残ったか
もう一つ、記録の残り方にも本人の工夫が見える。自序は『史記』を「藏之名山、副在京師、俟後世聖人君子(名山にしまい、副本を京師に置いて、後世の聖人君子を待つ)」と結ぶ。原本と副本を別々の場所に置く保管の考え方だ。
それでも欠けたものはある。『漢書』司馬遷伝は、「十篇缺、有錄無書(十篇が欠けていて、目録はあるが本文がない)」と明記している。
『漢書』によれば、遷の死後に『史記』は少しずつ世に出て、宣帝の時代に外孫の楊惲が祖述して広めた。本人は世に出る場面にいない。生没年も、Wikipedia によれば前145年説と前135年説に割れ、没年は明瞭ではない。
記録を残した人の最期の記録が、薄い。シリーズがずっと見てきた形が、記録者自身にも当てはまっている。
要するに、大変な思いをして残した記録ほど、中身より先に、その苦労を信じたくなるということじゃな。
……わしにも覚えがある。夜なべして仕立てた着物を褒められると、縫い目を見る前に、手間のほうが嬉しくなってしもうた。
「代償を払った記録者」という話は、読まれやすい型でもある
この記事自身が、司馬遷を痛みの物語の人として描くほど、読まれやすくなる構造の中にいる。the NTM もアクセスが数字に出る媒体で、苦難と記録という組み合わせは、本文の検証より先に共感を呼ぶ。そこで本稿は、苦難の事実を否定せずに、その語り手が誰かを前に出す形を選んだ。それが読み物として弱くなった部分は、編集部の判断として残す。
この記事で確かめられていないこと
| 未確認 | 欠けた10篇の具体的な内容と、現存する該当篇が後補かどうか |
| 未確認 | 李陵事件と宮刑の経緯を、司馬遷の文章以外の同時代史料で裏づけられるか(本稿は Wikipedia の整理まで) |
| 未確認 | 「景帝本紀」をめぐる処罰背景説(Wikipedia が確証なしとする)の当否 |
| 未確認 | 中文維基文庫の本文と、底本・写本との異同 |
| 未確認 | 報任少卿書の成立年(本稿は年代に触れていない) |
出典
出典の格について
- 史記/卷130(太史公自序・中文維基文庫) — 父の遺言、李陵の禍、発憤の列挙、藏之名山
- 報任安書(中文維基文庫) — 職掌の位置づけ、腐刑の位置づけ
- 漢書/卷062(司馬遷傳・中文維基文庫) — 十篇缺、楊惲による宣布、班固の賛
- 司馬遷(Wikipedia) — 李陵事件の年代、生没年の異説
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