のう、前回と前々回で「悪女」って呼ばれた女の話を3人分やったじゃろ。あれ全員、書いた側の都合で評価が決まっとった、って話じゃった。じゃあ聞くけど——同じ人物への評価が、書いた側が変わるたびに引っくり返った例ってあるんか?
実は前回扱った武則天自身が、いちばん分かりやすい実例なんです。前回は『旧唐書』だけを読みましたけど、その115年後に書かれた『新唐書』を読むと、評価の中身がかなり変わっているんですよね。しかもそこで終わらなくて、1962年の中国ではさらに引っくり返ります。
武則天(624年ごろ〜705年)は、唐の皇后から出発し、690年に国号を「周」に改めて自ら皇帝を名乗り、705年の政変(神龍の変)で退位させられるまで統治した、中国史上唯一の女性皇帝である。前回の記事では、彼女の死から240年後に編まれた『旧唐書』(945年完成)が、巻末の「史臣曰」「贊曰」で彼女を「奸人妒婦之恆態(姦計を巡らす者・嫉妬深い女の変わらぬ習性)」「夔魖(山の妖怪)」と書いていたことを見た。
今回はその先に進む。 『旧唐書』からさらに115年後、1060年に完成した『新唐書』(欧陽脩・宋祁ら編)は、同じ武則天をどう書いているのか。そして、それからさらに約900年後の1962年、中国のある劇作家が彼女を舞台の上で英雄に書き変えた。評価が変わった理由を、それぞれの書き手が「誰に仕えていたか」から読み直す。
武則天への評価は、書き手が変わるたびに形を変えた
同じ人物・同じ生涯についての評価が、945年・1060年・1962年で別物になっている。本人の行動は一文字も変わっていない。
①『旧唐書』945年
②『新唐書』1060年
③ 郭沫若の劇 1962年
共通点
『旧唐書』は武則天に本紀を丸ごと一巻与えていた
まず前回の内容を短くおさらいする。武則天の生涯を記録した『旧唐書』は、彼女の死から240年後の945年、後晋(五代の一王朝)の劉昫らによって完成した。この史書は目次の上で、武則天に単独の一巻を与えている——「卷六 本紀第六 則天皇后」。同時代の他の皇帝と同格の扱いだ(一方、彼女を退位させた息子の中宗と、その次の睿宗は「卷七 本紀第七 中宗 睿宗」で一巻を共有している)。
本人を退位させた息子(中宗)は弟(睿宗)と巻を分け合っているのに、武則天だけは一巻を独占している——これは前回の記事では触れなかった点だが、記録上の扱いとしてはかなりの厚遇である。
だがその巻末(史臣曰・贊曰)では、彼女は呂后の「人彘」の逸話を先例に引かれたうえで「奸人妒婦之恆態」と断じられ、韻文では「夔魖(山の妖怪)」とまで書かれた。厚遇された記録の枠と、その中身の断罪が、同じ一巻の中に同居している。(原文と全訳は前回の記事「呂后も武則天もカトリーヌ・ド・メディシスも「悪女」なんですが、書かれ方までテンプレが同じなのはなぜですか?」を参照)
一巻まるまる与えるほど「重要人物」として扱っといて、中身は「化け物」呼ばわりか。矛盾しとらんか、それ?
矛盾のように見えますけど、実はこれ、『新唐書』の巻末が自分でその理由を説明しているんです。115年後に書かれた『新唐書』を読むと、なぜ武則天が「本紀」という格式で記録されているのかが分かります。
だが『新唐書』では、中宗と同じ巻に押し込まれている
『旧唐書』が武則天だけに与えていた単独巻は、『新唐書』では消えている。目次を見比べると、この違いははっきりしている。
| 史書 | 完成年 | 巻構成(目次の表記) |
|---|---|---|
| 旧唐書 | 945年 | 卷六 本紀第六 則天皇后(単独)/卷七 本紀第七 中宗 睿宗(共有) |
| 新唐書 | 1060年 | 卷四 本紀第四 則天皇后 中宗(共有) |
『旧唐書』が独占させていた巻を、『新唐書』は彼女を退位させた息子と共有させている。「本紀」という格式そのものは維持しながら、巻の見出しでの扱いは一段下がった格好だ。
待って、じゃあ『新唐書』のほうが厳しくなっとるんか? 115年経って、評価がさらに悪化したってことか?
巻の扱いだけ見るとそう読めますけど、実際に巻末の文章を読むと、逆に「化け物」という言葉は消えているんです。格式は下がったのに、罵倒の激しさは下がっている。 ここがねじれているところなんですよね。
『新唐書』の贊を読むと、「化け物」という言葉が消えている
『新唐書』の巻末には、欧陽脩自身の手による「贊曰」が置かれている。前半部分を原文のまま引く(〈維基文庫〉収録版・2026年起稿時に直接確認)。
つまり欧陽脩は、武則天を「本紀」として記録する形式そのものは、自分の判断ではなく古い先例の継承だと説明している。その先例として名指しされているのは、前回の記事で見た、武則天を断罪する側が引用した「人彘」の逸話ではなく、司馬遷・班固が呂后のために「高后紀」という一巻を作ったこと自体だ。同じ呂后を引き合いに出すにしても、前回見た『旧唐書』の「史臣曰」は彼女の逸話を悪の先例として使い、今回の『新唐書』の「贊曰」は彼女の記録形式を格式の先例として使っている。同じ人物を引用する目的が違う。
「唐之舊史(唐にまつわる従来の史書)」が具体的に何を指すかは、この一文だけでは確定できない。すでに散逸した唐代の国史・実録の類を指す可能性もあれば、『新唐書』より先に完成していた『旧唐書』自身を指す可能性もある。どちらであっても、欧陽脩が「本紀に列すること自体は自分の発明ではない」と述べている点は変わらない。
それでも「幸運にも罰を逃れた女」と書かれている
贊の後半は、化け物の比喩の代わりに、まったく違う理屈を持ち出す。こちらも原文のまま引く。
「夔魖(妖怪)」のような人格否定の語は、ここには一つも出てこない。 代わりに欧陽脩が持ち出しているのは、「善悪と幸不幸は必ずしも一致しない」という一段抽象的な議論だ。武則天は悪人だったが処刑を免れた「幸運な例外」であり、逆に彼女を退位させた側の中宗・韋后は、目の前で母后の顛末を見ていながら同じ轍を踏んで早々に破滅した「愚かな例」として並べられる。
格下げされた巻の見出しとは対照的に、文章そのものの罵倒は静かになっている。これは「評価が甘くなった」のではなく、罵倒の様式が、感情的な断罪から哲学的な線引きへと変わった、と見るほうが正確だ。
なるほどのう。「化け物」って言葉が無くなったから優しくなったように見えるけど、代わりに「悪いのに罰を逃れただけの、運の良い例外」って書かれとる。これはこれで、彼女の統治そのものを正当な統治として認めとらんってことじゃろ。
そうなんです。感情的な悪口が減った分、むしろ論理としては強化されているとも言えます。ここで気になるのが、この二つの史書を分けた115年の間に、書いた側の状況が何を変えたのかなんですよね。
二つの正史を分けた115年は、何が違ったのか
- 編纂は五代・後晋(936〜947年)という短命王朝の時代
- 唐滅亡(907年)からまだ40年弱。旧材料(実録・国史)が比較的豊富に残っていた時期
- 編纂の速度が優先され、既存の唐代史料をほぼそのまま引き継いだとされる
- 編纂は安定した北宋(960年〜)の仁宗期。17年をかけた大事業
- 主編の欧陽脩は、簡潔で道徳的な文体を重んじる「古文復興運動」の主導者
- 贊の冒頭で『春秋』(孔子が編んだとされる、善悪の書き分けで知られる史書)を引き合いに出す——道徳的な線引きを史書の役目とする立場
後晋の史官は「速く記録を残すこと」に、欧陽脩は「正しい筋道で善悪を書き分けること」に仕えていた。前者は既存の唐代資料をあまり手を加えずに引き継ぎ、感情的な糾弾の語彙もそのまま残った。後者は自分の文体と道徳観に合わせて全体を90,000字程度まで圧縮したとされ(旧本紀・列伝の分量は3分の1以下に削減)、その過程で罵倒の語彙は削られ、代わりに「吉凶と善悪は一致しない」という抽象的な論法が持ち込まれた。どちらも武則天その人を新しく調べ直したわけではない。書き手が仕えていた文体と時代の要請が変わっただけだ。
そして1959年、龍門石窟の一行の落書きが話を変えた
ここまでの二つは、いずれも武則天を否定的に扱う正史だった。だが1959年、中国のある劇作家がこの評価を丸ごと引っくり返す。
1300年近く経ってから、いきなり評価がひっくり返るんか? 何があったんじゃ。
きっかけは学術的な新発見というより、偶然の見学だったんです。1959年7月、劇作家で歴史学者でもあった郭沫若が洛陽の龍門石窟・奉先寺を訪れ、石窟に刻まれた「皇后武氏助脂粉銭二萬貫(皇后武氏が化粧料二万貫を寄進した)」という一行を見つけました。これに着想を得て詩を作り、1960年1月10日には五幕の歴史劇『武則天』の初稿を完成させています。
郭沫若は、それ以前に武則天を扱った他の劇(宋之的の作品)を強く批判していた。〈人民政協網〉の記事によれば、郭沫若はその作品について「男女関係から翻案しようとしたが、オスカー・ワイルドの『サロメ』の影響を受け、武則天が女性として男性を弄ぶ形になっている。これは翻案を逆にしてしまっている」と述べている。郭沫若が選んだのは、恋愛関係ではなく政治的な業績からの評価の見直しだった。 彼の劇は、武則天の統治下で戸籍がほぼ倍増し、経済が繁栄し、文化が栄えたと描き、後の「開元の治」(玄宗初期の盛世)の土台を築いた統治者として彼女を提示する。
戸籍増加や経済繁栄といった数字は、郭沫若の劇の中で描かれた統治像であって、本記事はその数字を現代の実証研究として検証していない。ここで確認できる事実は「郭沫若がそう描いた」ことであり、「実際にそうだった」ことではない。
1962年、この劇は北京人民芸術劇院によって首都劇場で上演された。1963年7月には中国戯劇家協会が座談会を開き、「武則天のために翻案することには意義がある。過去にも翻案した例はあったが、今回ほど力強いものはなかった」という評価が出たことが記録されている。「翻案(=評価を覆すこと)」という言葉が、当事者たちの間で公然と使われていた。
米国の研究者Jing Chenの論文「The Emperor is a Woman!」(Rising Asia Journal)は、郭沫若のこの劇を、当時の中国で進んでいた「歴史上の人物の再評価運動」(曹操の再評価などと同じ流れ)の一例として位置づけている。同論文は、郭沫若が武則天を「封建秩序に反抗する人民の利益を代表する人物」として描こうとした一方で、その描き方自体が郭沫若本人にとっても「明確ではなかった」と指摘している点も紹介している。
待って、それって「新しい証拠が見つかったから評価を変えた」んやなくて、「今の時代に都合のいい武則天像を、先に決めてから作った」ってことにならんか?
そこは慎重に言う必要があります。郭沫若が挙げた「戸籍が増えた」「経済が栄えた」という要素自体は、当時の唐代史研究でも語られていたことです。ただ、その事実の中から何を主役に据えて劇にするかという選び方は、明らかに当時の政治的な要請——旧い身分秩序を否定し、下からのし上がった指導者を肯定的に描くという要請——に沿っています。事実を捏造したわけではなく、どの事実を前に出すかを、仕える相手に合わせて選んでいるんです。
三つの評価を並べる
| 評価 | 誰が | 何に仕えていたか | 武則天をどう書いたか |
|---|---|---|---|
| ①旧唐書(945年) | 後晋・劉昫ら | 短命王朝での速い編纂 | 単独本紀を与えつつ「奸人妒婦」「夔魖(妖怪)」と断罪 |
| ②新唐書(1060年) | 北宋・欧陽脩ら | 簡潔・道徳的な古文の文体 | 中宗と巻を共有させ格下げ。罵倒語は消え「幸運にも罰を逃れた者」と論じる |
| ③郭沫若の劇(1962年) | 劇作家・郭沫若 | 新中国の歴史人物再評価の潮流 | 政治的功績を根拠に優れた統治者として肯定的に描く |
武則天本人の行動は、945年から1962年までの間、一文字も変わっていない。変わったのは常に、記録する側・描く側が、その時代のどんな要請に応えていたかのほうだ。後晋は唐代資料を速く受け継ぐことに、欧陽脩は道徳的な文体で歴史を書き直すことに、郭沫若は新しい国家の歴史観に、それぞれ仕えていた。
客観的に言えば、答えは「どの評価も、書いた側の都合ありきだった」で終わりだ。ただ人間はそれじゃ収まりが悪い。「結局この人は良かったのか悪かったのか」を知りたがる生き物でな。三つとも仕えた相手が違うだけ、という結論は正しいが、読んだ後に残る座りの悪さは、それはそれで本物だ。
その座りの悪さこそ、この記事が最初から答えを一つに決めなかった理由でもある。「どれが本当の武則天か」という問いには、実は答えがない。あるのは「誰が、何のために、この記録を必要としたか」という、書き手の側の問いだけだ。
この記事で確かめられていないこと
出典
- 【史書・原文】 舊唐書(維基文庫)目次 ── https://zh.wikisource.org/wiki/舊唐書。巻構成(卷六 本紀第六 則天皇后/卷七 本紀第七 中宗 睿宗)を本記事執筆時に直接確認した
- 【史書・原文】 新唐書(維基文庫)目次 ── https://zh.wikisource.org/zh-hant/新唐書。巻構成(卷四 本紀第四 則天皇后 中宗)を本記事執筆時に直接確認した
- 【史書・原文】 新唐書 卷四 本紀第四 則天皇后 中宗(維基文庫) ── https://zh.wikisource.org/wiki/新唐書/卷004。冒頭「則天順聖皇后武氏諱曌」および贊曰全文を本記事執筆時に直接確認した
- 【解説】 『武則天』の創作と修改(人民政協網) ── http://www.rmzxw.com.cn/c/2018-06-19/2088731.shtml ── 郭沫若の執筆動機・1959年龍門石窟訪問・宋之的批判・戯劇家協会座談会の記録
- 【研究】 Jing Chen「The Emperor is a Woman! Changing Representations of Empress Wu in Chinese Popular Culture, 1939-2010」Rising Asia Journal ── 郭沫若の劇を新中国の歴史人物再評価運動の文脈に位置づける
- 【前回記事】 呂后も武則天もカトリーヌ・ド・メディシスも「悪女」なんですが、書かれ方までテンプレが同じなのはなぜですか? ── 『旧唐書』則天皇后本紀の史臣曰・贊曰の原文検証(本記事の前提)
- 【シリーズ第1回】 『天幕のジャードゥーガル』を「モンゴル版・大奥」だと思って見ると、史実の方が無茶苦茶だった ── シリーズの中心命題(書き手の立場が記録を形づくる)
- 【シリーズ第2回】 「悪女ドレゲネ」はペルシア語の記録にしかいない
本記事の中国古典の原文(『旧唐書』『新唐書』の巻構成・贊曰)は、いずれも維基文庫(Wikisource)で無料公開されている版から本記事執筆時に直接確認した。人民政協網の記事とRising Asia Journalの論文もウェブで無料公開されている。有料データベースを経由しなくても、本記事の引用は読者自身の手で照合できる。
『旧唐書』は武則天に一巻まるまる与えといて中身は化け物呼ばわり、『新唐書』は巻を息子と共有させといて中身は静かになる。格式と罵倒の強さが、逆方向に動いとった。要するに、評価する側の物差しが変わっただけで、武則天は一歩も動いとらんかったってことじゃな。……わしにも覚えがあるぞ。同じ失敗を、機嫌のいい日の自分は「まあこういう日もある」で済ませて、機嫌の悪い日の自分は「だから駄目なんじゃ」って書いとる。書いとる本人が変わっただけで、失敗の中身は同じじゃったのに。
三段跳びの物語にしていないか
「化け物→幸運な逃亡者→英雄」と三段で並べると、話としてはとても座りがいい。だがこの座りの良さ自体を、the NTM は少し疑っている。三つの評価を選んで並べた時点で、こちらも「反転する物語」という型に武則天を流し込んでいるからだ。郭沫若が政治的な必要から彼女を英雄に描き直したのと、the NTM が「評価は仕えた相手で決まる」という筋書きに落とし込むのとで、やっていることの構造がどこまで違うのか。ここは読者の判断に委ねる。
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