「司馬史観」への批判は、たいてい司馬遼太郎という一人の作家に向かう。明るい明治と暗い昭和、という図式を広めた張本人として。
ただ、その見方には一つ、確かめていない前提がある。「あの時代はこうだった」という常識を一冊でまとめて渡す席は、司馬遼太郎が来る前から空いていたのではないか、ということだ。
この記事では、幕末から明治にかけて最も読まれたとされる歴史書『日本外史』と、司馬作品を、同じ項目で並べてみる。
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司馬遼太郎が書いたのは、まず小説だった
先に、何が起きていたかを時系列で確認する。Wikipedia『司馬遼太郎』によれば、代表作の連載時期と大河ドラマ化は次のとおり。
| 出来事 | 年 |
|---|---|
| 『竜馬がゆく』連載 | 1962〜1966 |
| 『竜馬がゆく』が大河ドラマ化 | 1968 |
| 『坂の上の雲』連載 | 1968〜1972 |
| 『国盗り物語』が大河ドラマ化 | 1973 |
もう一つ、Wikipedia『司馬史観』は、司馬作品の多くを「大衆小説」とし、小説とするために史実を意図的に変えている、と明記している。批判は左右両方から出ていて、歴史修正主義の土台になったという批判と、自虐史観の土台になったという批判が並ぶ。
書き手本人の側から見れば、小説として書いたものが、歴史観という名前を後から貼られたことになる。ここは先に押さえておきたい。
小説じゃと分かっておるなら、読む側が史実と混ぜなければ済む話ではないのか?
そうですよね、理屈の上では。ただ、慶應の『三田評論』の座談で大石裕さんは、『竜馬がゆく』が大河ドラマになって龍馬の評価が上がり、龍馬空港という名前にまでなった、と話しています。小説が映像になり、地名になると、読んだかどうかに関係なく、人の頭に入ってくるんです。
混ぜるかどうかを読者の注意力に任せられる段階は、もう過ぎていると思います。
筆名にある「司馬遷に遼かに及ばず」
司馬遼太郎という筆名は、Wikipedia『司馬遼太郎』によれば「司馬遷に遼(はるか)に及ばざる日本の者(故に太郎)」に由来するとされる。文藝春秋の『本の話』も、敬愛する司馬遷に「遼に及ばず」という意味を込めた、と紹介している(ただし「とか」という伝聞の書き方で、本人の文章までは確認できていない)。
司馬遷に遼かに及ばざる日本の者(故に太郎)
『史記』を書いた司馬遷は、歴史書の書き手が「座る席」の元祖のような人だ。そしてこの席の名前は、次の章の本にも出てくる。
『日本外史』は、同じ席に先に座っていた
『日本外史』は頼山陽が書いた、源氏と平氏から徳川氏までの武家盛衰史だ。全編が漢文で、Wikipedia『日本外史』によれば中国の『史記』の紀伝体に倣っている。書名の「外史」は民間による歴史書の意味で、公式の歴史書ではない。
ここで注目したいのは、読まれ方と評価がずれていたことだ。同じ Wikipedia の記述では、史実については先行史料との食い違いが多く、専門の学者からは刊行当初から批判された。儒者の帆足万里は「文体は俗っぽく、考証は杜撰で、議論も公平でなく」と酷評している。
さらに、頼山陽の執筆意図とは無関係な尊王攘夷論や、むしろ正反対の討幕論まで、この本から生まれたと指摘されている。書いた人の意図と、読まれて起きたことが、別々に動いたわけだ。
専門家に叩かれておるのに、いちばん読まれたのか。叩かれる本ほど、常識の形をしておる、ということかのう。
そこは慎重に言いたいです。叩かれたから読まれた、とまでは、今回確かめた資料では言えません。確かなのは、批判と普及が同時にあった、というところまでですね。
ただ、考証の細かさと読みやすさが別の軸にある、というのは、後の時代の歴史小説にもそのまま当てはまりそうです。
二冊を同じ項目で並べる
『日本外史』と司馬作品を、確認できた範囲の項目で並べる。どちらも「確認できた」ことしか書いていない。空欄にしたところは、今回の資料では分からなかった項目だ。
| 項目 | 『日本外史』 | 司馬作品 |
|---|---|---|
| 形式 | 漢文の歴史書(『史記』に倣う) | 大衆小説(史実を意図的に変えている点がある) |
| 立場 | 民間(「外史」) | 民間の作家 |
| 専門家の評価 | 刊行当初から考証の杜撰さを批判された | 実証面の盲点の指摘がある |
| 普及 | 幕末〜明治に最も読まれた歴史書とされる | 高度経済成長期に支持され、大河ドラマにもなった |
| 書き手の意図と受容 | 意図と無関係な尊王攘夷論・討幕論が生まれた | 小説として書いたものに、歴史観の名前が貼られた |
| 発行部数の比較 | — | — |
最後の行が空欄なのは大事なところで、どちらがより広く読まれたかを、本稿は比べられていない。比べられない以上、「同じ席に座った」とは言えても、「同じくらいの力で座った」とは言えない。
本稿仮説:席は空いたことがない
ここまでを、観察と既存の見方と仮説に分けて書く。
観察(出典あり): 『日本外史』も司馬作品も、民間の書き手が書き、専門家からは史実面の批判を受け、それでも広く読まれた。そして書き手の意図とは別の形で、時代の常識に使われた。
既存の見方として、慶應義塾の『三田評論』(2023年4月)の座談は、三人が別々の角度を出している。
- 大石裕は、司馬を「国民作家」として、国民的な記憶、集合的な記憶として日本の芯にいるように思える、と述べる。
- 福間良明は、『坂の上の雲』は日露戦争の勝利の物語である一方、明治陸軍や明治政府の組織の病理もかなり描いている、と指摘する。
- 片山杜秀は、複数の語り手(司馬、島田雅彦、歴史学者)が並ぶことが、一つの歴史観の独占を防ぐ、と述べる。
座談の要約は公開されている記事の範囲で、三人の著書は確認していない。
そのうえで本稿仮説を置く。時代の常識を、筋の通った一冊で渡す席は、いつの時代にもある。席は空かず、座るものだけが、その時代にいちばん流通する媒体に替わる。 幕末〜明治は漢文の歴史書、高度経済成長期は新聞連載の小説とテレビだった。
☐ 司馬以前の昭和戦後に、『日本外史』と同程度に読まれた別の媒体があり、その後に司馬作品が広まったことが、発行部数や視聴データで示された場合、「席は一つに集まる」という部分は崩れる
☐ 『日本外史』が実際には、同時代にそれほど読まれていなかったことが、刊行・貸本の記録で示された場合、前半の観察が崩れる
最後に、この記事自身のことも書く。「席」という一語で全体を整理した時点で、この記事も、筋の通った一つの物語を渡す側に回っている。 読み終えたあとに残るのが本稿の筋だけで、元の史料や座談の細部ではない、という形は、ここでも起きうる。
要するに、「あの時代はこうじゃった」と言い切れる本があると、安心するんじゃな、ということじゃ。
……わしにも覚えがある。山の名前を、旅の本で読んだきりなのに、見てきたように人に話してしもうた。見たことのない景色ほど、すらすら出てくるものでのう。
「席」という説明で、司馬を軽くしていないか
司馬遼太郎を「たまたま席に座っただけ」と読めるように書いてはいないか。この記事は、作品の中身や人物の描き方の当否には入っていない。席の話をするほど、個々の書き手が何を選んで書いたかが薄まる。それは the NTM が「構造で説明する」ときにいつも払っている代償だ。
この記事で確かめられていないこと
| 未確認 | 『日本外史』と司馬作品の発行部数・読者数の比較 |
| 未確認 | 筆名の由来を、司馬本人が書いた文章で確かめること(本稿はWikipediaと書評記事の紹介まで) |
| 未確認 | 国定教科書をはじめ、戦前〜戦後にこの席に座った別の媒体があったか |
| 未確認 | 『日本外史』を直接読むこと(本稿は概説の範囲) |
| 未確認 | 「司馬史観」という言葉を最初に使ったのが誰か |
出典
出典の格について
- 司馬遼太郎(Wikipedia) — 筆名の由来、連載年、大河ドラマ化
- 司馬史観(Wikipedia) — 定義、左右からの批判、大衆小説であること
- 日本外史(Wikipedia) — 成立年、刊行年、普及、批判、尊王攘夷への影響
- 司馬本の楽しみ方(本の話・文藝春秋) — 筆名の由来の紹介
- 司馬遼太郎生誕100年(慶應義塾 三田評論・三人閑談) — 大石裕・福間良明・片山杜秀の発言
参考文献・検証ログ
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