前の回で「103万円は30年動かんかった」って話を聞いたんじゃけど……じゃあ税金が動いてなかった間、わしらの手取りはずっと同じじゃったのか? そんな覚えはないんじゃがのう。
そこがこの回の入口よ。所得税の話だけ追っていると、手取りが増えない理由の半分を見落とすことになるの。止まっていたのは税。動き続けていたのは、もう1本のレーンだった。
この記事について(シリーズ「日本は、動き始めたのか。」第2回)
本稿は「手取りの構造史」Season1 の第2回。所得税とは別系統で手取りを圧迫してきた社会保険(厚生年金・健康保険)の成り立ちと、その中で生まれた「106万円の壁」「130万円の壁」を制度史として追う。第1回で扱った所得税の103万円・123万円の壁とは別の制度なので、混ぜずに読み進めてほしい。年収別の実負担率の分解は既存記事「「税より重い」社会保険料の実態」が現状編にあたる。本稿はその「なぜそうなったか」の側を担当する。
税は止まり、保険料は動いた — もう1本のレーン
所得税の課税最低限が1995年から約29年動かなかった一方、厚生年金保険料率は2004年の法改正で「毎年引き上げる」ことが法律に書き込まれ、2017年9月まで上がり続けた。手取りが増えない体感の相当部分は、税率ではなくこちら側で起きていた。
原点は「保険」だった
税と逆に「上げる」と決めた
壁は税制の壁ではない
実態は制度より先に動いた
税と社会保険料は、そもそも生まれ方が違う
税は「負担能力に応じて集める」もので、社会保険料は「給付と引き換えに集める」ものだ。この出発点の違いが、その後の動き方の違いを決めている。
国立国会図書館の調査資料(本田麻衣子「第3号被保険者をめぐる議論」ISSUE BRIEF No.783、2013年)によれば、1961年(昭和36年)の国民年金制度発足当時、厚生年金などの被用者年金は「被用者たる夫と職を持たず家事に専念する妻」を給付の標準的な単位とする世帯単位の設計だった。被用者の無業の妻は国民年金の強制適用の対象ではなく、任意に加入できる扱いだった。
- 控除の合計額を超えた部分にだけ課税される
- 境界を超えても、超えた分に少額の税がかかるだけ
- 額を動かすには税制改正が必要=放置すると止まる
- 止まった結果が第1回の「103万円・29年」
- 加入すれば標準報酬に料率をかけた額が発生する
- 加入・非加入の境界では、負担が段差で現れる
- 給付の財源が要るため、料率は上げる方向に動く
- 2004年改正では引き上げ自体が法律に書かれた
つまり所得税は「政治が動かさないと止まる」制度で、社会保険料は「給付を約束した分、動かさざるを得ない」制度だった。同じ「手取りが増えない」という体感の裏側で、2つのレーンは逆方向の力学で動いていた。
じゃあ逆に、社会保険料が上がるのを止めたら、そっちのほうが手取りに効くんじゃないの? 税を1万円下げるより、そっちを1万円下げたほうが早い気がするのじゃ。
効くわよ。ただし保険料は将来の給付の原資でもあるから、下げた分は「今の手取り」と「将来の年金」のどちらを取るかの取引になるの。税を下げるときの「財源はどうする」という問いが、社会保険では「自分の将来の受取額はどうする」という形で自分に返ってくる。だから議論が同じ形にならない。
保険料率は「止まっていなかった」
厚生年金保険料率は、日本年金機構の公表資料によれば2004年(平成16年)の年金制度改正に基づいて段階的に引き上げられ、2017年(平成29年)9月を最後に引き上げが終了して18.3%で固定された。この18.3%は労使折半なので、被保険者本人の負担は報酬の9.15%にあたる。
注目すべきは、2004年改正が「必要になったら上げる」ではなく引き上げのスケジュール自体を法律に書き込んだ点だ。所得税の控除額が「改正しなければ動かない」制度だったのとは対照的に、こちらは「改正しなければ上がり続ける」制度として設計された。第1回で見た103万円の据え置きと、この期間はほぼ重なっている。
※ いずれも対国民所得比。2024年度までは実績。社会保障負担率は2000年度12.9%から2020年度19.4%へ約6.5ポイント上昇し、租税負担率の上昇幅(22.5%→27.9%)と同程度の変化が「税ではない側」で起きていた。
なお健康保険料率は全国一律ではない。全国健康保険協会(協会けんぽ)は都道府県ごとに料率を設定しており、同じ年収でも勤務先の所在地によって負担額が変わる。ここも「税率」という言葉で語ると見えなくなる部分だ。
「税率は上がってない」と言う人も、「実質増税だ」と言う人も、どっちも半分だけ正しい。片方は税の話をして、片方は手取りの話をしてる。同じ言葉で違うレーンを指してるから、議論が噛み合わないままここまで来た。
106万円と130万円は、税の壁ではない
ここが本稿でいちばん切り分けたいところだ。「年収の壁」と呼ばれる数字は、実際には別々の制度に属する別々の境界である。
| 呼び名 | どの制度の境界か | 超えると何が起きるか |
|---|---|---|
| 103万円 → 123万円 | 所得税(基礎控除+給与所得控除) | 超えた部分に所得税がかかり始める(本シリーズ第1回で扱った) |
| 106万円 | 被用者保険(厚生年金・健康保険)の加入要件 | 要件を満たすと勤務先の社会保険に加入し、保険料の本人負担が発生する |
| 130万円 | 健康保険の被扶養者認定/国民年金第3号被保険者 | 扶養から外れ、国民年金・国民健康保険(または勤務先の被用者保険)に自分で加入する |
| 150万円 / 160万円 | 扶養する側の控除・被扶養者認定の特例 | 配偶者特別控除の縮小や、19〜23歳の被扶養者に関する認定基準など、対象が限定される |
「106万円」という数字が公式な条文にあるわけではない点も押さえておきたい。日本年金機構の説明では、短時間労働者が被用者保険の対象になる要件は週の所定労働時間20時間以上・学生でない・所定内賃金が月額8.8万円以上で、この月8.8万円を12か月分に換算した約105.6万円が「106万円」と通称されている。
130万円のほうは性質がさらに違う。前掲の国立国会図書館の資料は、被扶養配偶者の認定は政令により日本年金機構が行うとされ、具体的には健康保険等の被扶養者の認定の取扱いを勘案して、年間収入が130万円未満であることが要件とされていると説明している。つまり130万円は税法から出た数字ではなく、健康保険側の運用に年金側が合わせた基準だ。
待ってほしいのじゃ。制度が全部バラバラなら、「壁をなくします」って言われても、どの壁の話をしとるのかわからんじゃろ? 103万を上げても130万が残ってたら、結局働く時間は増やせんのう。
そこは制度側も自覚していて、厚生労働省は税と社会保険をまとめて「年収の壁」として1つの窓口で説明する形に変えているの。ただ、所管が財務省・国税庁と厚労省・年金機構に分かれている限り、改正のタイミングは揃わない。制度が縦割りなら、壁も縦割りに残る。
「壁」が痛いのは、控除と違って段差だから
所得税の103万円と、社会保険の106万円・130万円で、超えたときの体感が決定的に違う理由がここにある。
だから「就業調整」は非合理な行動ではない。境界の直後で手取りが下がる区間が実在するのだから、そこを避けるのは合理的な判断だ。逆に言えば、この段差を制度側が平らにしない限り、「もっと働いてほしい」という要請と個人の合理性はぶつかり続ける。
ただし、段差を越えた先には給付がある。厚生年金に加入すれば将来受け取る年金は基礎年金だけの場合より増え、健康保険の被保険者本人になれば傷病手当金などの対象にもなる。ここを「負担が増えるだけ」と説明するのは正確でない。第3号被保険者制度がそもそも1985年(昭和60年)の改正で作られた目的も、前掲の国立国会図書館資料によれば「妻が任意加入していない場合、障害を持った時や離婚時の年金保障に欠ける」という問題への対応だった。保険料を払わない仕組みは、その時点では無年金を防ぐための前進として設計されている。
1985年に「妻に年金権を渡す」ためにつくった仕組みが、40年後に「働くと損する境界」として名前を呼ばれてる。制度が悪くなったんじゃない。前提だった家族の形が動いて、制度だけが残った。それだけのことだ。
動いたのは、制度より先に実態だった
制度が壁を外すより早く、壁の内側にいる人の数が減っていた。
※ 1986・2000・2010年度は国立国会図書館 ISSUE BRIEF No.783(2013年)掲載の表1、2023年度末は厚生労働省年金局「令和5年度 厚生年金保険・国民年金事業の概況」による。
厚生労働省年金局の「令和5年度 厚生年金保険・国民年金事業の概況」によれば、2023年度末の第3号被保険者数は686万人で、前年度末に比べて36万人(4.9%)減少している。同じ時点で厚生年金の被保険者数は4,672万人と54万人(1.2%)増えており、公的年金の被保険者総数6,745万人はほぼ横ばいだ。つまり第3号から厚生年金の被保険者側へ人が移動している。
この移動には2つの力が同時に働いている。1つは適用拡大という制度側の変更、もう1つは共働きの増加という世帯側の変化だ。どちらが主因かを本稿の資料だけで断定はできないが、少なくとも「壁の内側で止まっている人」を前提にした議論の対象人口は、2000年度のピーク時から約4割減っている。
じゃあもう壁の問題は勝手に小さくなっとるのか? 放っておいてもよかったのじゃ?
そうはならないの。減ったのは「壁の内側にいる人」で、増えたのは「壁を越えて保険料を払う側になった人」。問題が消えたわけではなく、問題の場所が移っただけよ。壁を越えた人にとっては、次は保険料の水準そのものが論点になる。第4回で扱うブラケット・クリープは、まさにその移った先の話。
2025年改正で決まった撤廃スケジュール
そして社会保険側は、いま実際に動いている。厚生労働省と日本年金機構の公表資料によれば、2025年(令和7年)6月に成立した年金制度改正法で、106万円の壁を形づくっていた2つの要件の撤廃が決まった。
出典:厚生労働省「『年収の壁』への対応」/日本年金機構「短時間労働者に対する健康保険・厚生年金保険の適用の拡大」。企業規模要件の段階は年金機構の公表スケジュール(令和9年10月=36人以上、令和11年10月=21人以上、令和14年10月=11人以上)に基づく。
第1回で見た所得税側は、2025年度改正で123万円へ引き上げられ、今後は基礎控除の本則部分を物価に連動させる仕組みが入った。社会保険側は金額の壁を上げるのではなく境界そのものを消す方向で動いている。同じ「年収の壁対策」という言葉で語られながら、2つのレーンは違う解き方を選んだ。
独自ファクトチェック・検証視点
厚生年金保険料率18.3%と2017年9月の固定は日本年金機構の公表ページ、企業規模要件の撤廃スケジュールは同機構の適用拡大ページ、賃金要件の撤廃と130万円側の運用変更は厚生労働省「『年収の壁』への対応」に基づく。第3号被保険者数は1986・2000・2010年度が国立国会図書館 ISSUE BRIEF No.783(2013年)掲載の表、2023年度末が厚生労働省年金局の事業概況による。130万円という基準が最初に導入された年は、本稿で確認した一次資料では特定できなかったため記載していない。負担率は対国民所得比であり、対GDP比とは水準が異なる。健康保険料率は都道府県で異なるため、本稿では全国一律の数値として扱っていない。
宿題:壁をなくすと、負担は誰に移るのか
「壁をなくす」は「負担がなくなる」ではない。境界の段差が平らになるかわりに、これまで壁の内側にいた人が保険料を払う側に移る。それが給付の増加で報われるかどうかが、次の10年の論点になる。
企業規模要件が最終的になくなる2035年10月まで、被用者保険の対象は段階的に広がっていく。壁の手前で就業時間を抑える必要は薄れる一方、保険料の本人負担が発生する人は増える。ここで残る問いは3つだ。
1つ目は、増えた保険料負担に見合う給付の改善があるか。2つ目は、事業主負担も同時に増えるため、その分が賃金の伸びを抑える形で吸収されないか。3つ目は、第3号被保険者制度そのものをどうするかという、1985年の設計に立ち返る議論だ。国立国会図書館の資料が2013年時点で「制度創設当初から見直しを求める意見が根強くある」と整理していた論点は、10年以上を経てまだ決着していない。
結局さ、税も社保も「上げたり下げたり」の話をしとるけど、わしが知りたいのは来年の手取りが去年より多いかどうかだけなのじゃ。そこを教えてくれる制度は無いのか?
それを1枚で見せる仕組みが、まさに今この国に無いものよ。所得税は国税庁、社会保険は年金機構と健保組合、物価は総務省。手取りという1つの数字を作っている部品が、全部別の役所に散っている。だから「手取りが増えない理由」を自分で組み立てないと分からない。
どうせ制度は縦割りのままだ。でもな、どの数字がどのレーンの話なのかを自分で見分けられるようになれば、選挙で誰が何を動かしたのかも見分けられる。それは制度の側が用意してくれない道具だ。
the NTM の立場について(§4-0)
「税より重い社会保険料」という切り口は読者の関心を引きやすく、検索でも読まれやすい。NT Media はアクセス数が収益に直結する媒体で、その引力の中にいる自覚がある。だからこそ本稿では、社会保険料を「隠れ増税」と一括せず、給付との引き換えである点と、第3号被保険者制度が無年金を防ぐ前進として設計された経緯を同時に書いた。負担の話だけを大きく書けば読まれるが、それは読者が自分の来年の手取りを判断するための材料にはならない。制度を批判するより、制度の部品がどこにあるかを渡すことを選ぶ。
手取りを決めているレーンは2本ある。所得税は改正しないと止まる制度で、実際に1995年から約29年止まった。社会保険は給付を約束した分だけ動かざるを得ない制度で、2004年の法改正で引き上げが法定され、厚生年金保険料率は2017年9月に18.3%で固定されるまで上がり続けた。社会保障負担率は2000年度の12.9%から2024年度の18.5%へ動いている。106万円は被用者保険の加入要件、130万円は健康保険の被扶養者認定を勘案した基準で、どちらも所得税の壁とは別物だ。そして第3号被保険者は2000年度の1,153万人から2023年度末の686万人へ減り、制度が壁を外す前に実態が動いていた。2026年10月に賃金要件が、2035年10月までに企業規模要件が消える。壁は平らになるが、負担がなくなるわけではない。次回は消費税レーンを追う。
主な参照資料:
- 日本年金機構「厚生年金保険の保険料」 — 厚生年金保険料率18.3%、平成16年からの段階的引き上げと平成29年9月の固定
- 日本年金機構「短時間労働者に対する健康保険・厚生年金保険の適用の拡大」 — 週20時間以上・月額8.8万円以上等の要件と、企業規模要件の段階的引き下げスケジュール
- 厚生労働省「『年収の壁』への対応」 — 106万円・130万円それぞれの内容、2025年改正の内容と施行時期
- 厚生労働省年金局「令和5年度 厚生年金保険・国民年金事業の概況」 — 2023年度末の公的年金被保険者数6,745万人、第3号被保険者686万人(前年度末比36万人減)
- 本田麻衣子「第3号被保険者をめぐる議論 ―年金制度の残された課題―」国立国会図書館 調査と情報 ISSUE BRIEF No.783(2013年4月18日) — 第3号被保険者制度の創設経緯(昭和60年改正)、130万円基準の位置づけ、被保険者数の推移
- 労働政策研究・研修機構「国民負担率の推移」 — 租税負担率と社会保障負担率の年度別推移
- 財務省「国民負担率」 — 国民負担率の公表元
- 全国健康保険協会「都道府県毎の保険料率」 — 健康保険料率が都道府県ごとに異なることの確認
この記事が接続する関連記事:
- 本シリーズ第1回「103万円の壁って、なんで30年も動かなかったんですか?」— 所得税レーンの制度史(公開後にリンクを追記する)
- 「税より重い」社会保険料の実態 — 年収別に負担率を分解すると見えてくる手取り減少の構造 — 社会保険料の現状編。年収別の実負担率
- 家計防衛2026 — 物価・賃金・税・投資、4正面の同時多発戦を生き延びる — 家計防衛のハブ記事
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- 2026-07-30: 初稿作成(自動起稿レーン・装填在庫、シリーズ「日本は、動き始めたのか。」Season1 第2回)
訂正履歴
- 現時点で訂正はありません。
参考資料
- 一次日本年金機構「厚生年金保険の保険料」nenkin.go.jp
- 一次日本年金機構「短時間労働者に対する健康保険・厚生年金保険の適用の拡大」nenkin.go.jp
- 一次厚生労働省「『年収の壁』への対応」mhlw.go.jp
- 一次厚生労働省年金局「令和5年度 厚生年金保険・国民年金事業の概況」mhlw.go.jp
- 一次本田麻衣子「第3号被保険者をめぐる議論 ―年金制度の残された課題―」国立国会図書館 調査と情報 ISSUE BRIEF No.783(2013年4月18日)dl.ndl.go.jp
- 一次労働政策研究・研修機構「国民負担率の推移」jil.go.jp
- 一次財務省「国民負担率」mof.go.jp
- 参考全国健康保険協会「都道府県毎の保険料率」kyoukaikenpo.or.jp