明治の終わりに、神社がごっそり減ったって聞いたんじゃが……社が無くなったら、そこにおった神様はどうなるんじゃ? 一緒に消えたんか、それともどこかへ引っ越したんか?
制度の上では、神様は消えていないんです。廃される神社の祭神は、別の神社に合わせて祀るか、その境内の小さな社にまとめて遷座させる扱いでした。消えたのは社殿や鎮守の森、それに祭りのほうです。ただ、実際にご神体がどこへ行ったかは村ごとにばらばらで、記録が残っているかどうかも村ごとに違います。
合祀で動いたのは「神様」より「社と森と祭り」だった
明治末の神社合祀は、祭神を合祀先へ移す形で社を廃した。書類の上では神様は引っ越しただけだが、社殿・森・祭礼・古文書は別の運命をたどった。相模原の役場文書と南方熊楠の意見書から、何が残り何が消えたかを追う。
建前:祭神は合祀先へ
現実:小さな祠は川へ流された
残った紙:役場文書と神社明細帳
戻った神様もいる
合祀は、何がいつ決まって動いたのか
「神社合祀」は、明治政府が1906年(明治39年)から進めた神社整理政策で、国が目指したのは「一町村に一社」だった。相模原市立公文書館の展示目録は、この政策の端緒を、原敬内務大臣のときに出された勅令第220号「神社寺院仏堂合併跡地ノ譲与ニ関スル件」としている。神社を合併したあとの跡地を譲与する法的な根拠が、ここで用意された。
出典:各資料をもとに編集部作成。
条件のきつさが効いた。南方熊楠の意見書によれば、神社に神職を置き、村社は年120円以上、無格社は60円以上の報酬を出させ、さらに村社500円以上、無格社200円以上の基本財産を積ませる、というのが当初の線だった。そこから、積立額が「千円、二千円」と上がっていき、和歌山県では5,000円、大阪府では6,000円まで引き上げられたと南方は書く。積めなかった神社が、合祀請願に調印させられる側に回った、という構図だ。
五百円が五千円か。氏子が一年がかりで積んどっても、積み終わる前に目標が動いたら、もう間に合わんじゃろ。
そこが南方の一番の怒りどころです。ただ、これは反対派の側の書き方であることは頭に置いておきたいんです。当局は、合祀で信仰心が高まり基本金が集まるなど、効果は著しいと言明していた、と南方自身が新聞報道を引いて書いています。
「何社消えたか」の数字が、そもそも割れている
合祀の規模を示す数字は、資料ごとに違う。南方熊楠は、読売新聞(1911年12月19日と1912年1月20日付)を引いて、全国に約19万社あったうち、すでに5万7,238社を合併し終え、さらに2万2,413社が準備中だと書く。
出典:南方熊楠「神社合祀に関する意見」(読売新聞の報道を引用)をもとに編集部作成。
この図の「合併済み+準備中」は約8万社になる(編集部計算)。これは、戸矢学氏がnippon.comで書く「約20万社が12万社に」と同じ規模だ。一方、Wikipediaは「1914年(大正3年)までに約20万社のうち7万社が取り壊された」とする。県別になると、さらに食い違う。
| 資料 | 全国 | 三重県 | 和歌山県 |
|---|---|---|---|
| 南方熊楠(1911〜12年ごろの時点) | 約19万400のうち合併済み5万7,238+準備中2万2,413 | 5,547減って942残る(1911年6月まで) | 3,700が600に(1911年11月まで) |
| Wikipedia「神社合祀」 | 約20万のうち7万が取り壊し(1914年まで) | 10,524(1903年)が1,165(1913年)に | 愛媛県と並んで合祀が進んだとのみ記載 |
| 戸矢学(nippon.com・2017年) | 約20万が12万に | 約9割が廃された | 3,700が790に |
出典:南方熊楠「神社合祀に関する意見」、Wikipedia「神社合祀」、nippon.com「神社とエコロジー②」をもとに編集部作成。
三重の残りが、南方さんは942で、ウィキは1,165じゃろ。時間が進んだのに数が増えとるのは、おかしくないか?
おかしいです。数え方が違うのか、復社などで後から増えたのか、今回は確かめられていません。ここで言えるのは、「何社消えたか」という一つの数字が決まっているわけではなく、どの資料を引くかで、同じ県の話でも数字が変わるということまでです。
紙の上で、神様はどう動いたのか
相模原市立公文書館が2022年1月に開いた企画展の目録には、旧町村の役場文書が並ぶ。合祀は、役場の書類としては、願い、調査、届け、そして土地の譲与願という順番で進んだ。
田名村の文書を日付で並べると、「神社合併処分済御届」が1909年5月13日、その7日後の5月20日に「官有地譲与願」が出ている。廃した神社の跡地を譲り受ける手続きが、合祀の完了とほぼ同時に始まっていた。合祀の前、1908年2月には「神社廃合内申ノ件」の文書も出ている。
旧相原村では、様子が違う。村社3社(相原八幡宮・橋本神明大神宮・小山天縛皇神社)と無格社1社の合併話は難航し、賛成派と反対派に分かれて、目録の言葉でいえば訴訟、陳情合戦に発展した。目録には1908年の「神社合併願」、1909年12月の「神社合併済御届」に続いて、1911年の「陳情書」と、1913年2月7日付の「調停条件覚書」が並ぶ。届けが出たあとも、書類は終わっていない。
じゃあ、書類の上では神様は「どこどこ神社に合祀済み」で終わっとるんじゃな。実際に運んだ人が何を持って行ったかは、紙には書かんかったと。
展示目録に載っているのは書類の題名までで、中身までは今回確かめられていません。ですから「書かなかった」と言い切るのは控えます。確かなのは、神社の側の台帳(明細帳)と、役場の側の文書の二系統が別々に残っていて、この二つが突き合わせられる村では、合祀の経過をたどれるということです。
ご神体のほうは、書類の外でどうなったのか
書類に出ない部分を、南方熊楠は聞き書きで拾っている。ただし以下は全て反対派の一人が書いた記述で、当局側の資料による裏取りは今回できていない。
- 川へ流された:日高郡上山路村では、大小72社を東大字の社に合併し、小さい祠は川へ流させたと南方は書く。
- 焼けた:その村で、合祀された神体を社殿に並べて住民に見せた晩に、合祀を嫌う者が火を放ち、古い神像や古文書もろとも焼けたという。
- 隠された:南富田村の金刀比羅社では、復社のとき、合祀先の神職が「神社は戻っても神体は返さない」と言い出した。ところが本物の神体は合祀のときに渡さず隠してあり、復社の瞬間にはもう戻っていた、と南方は書く。
- 放り込まれた:西牟婁郡朝来村では、古い立派な社3社の神体が、残った最も劣る社に放り込まれ、全村が無神のありさまになったという。
この他にも合祀の際、偽神体を渡し、真の神体を隠しある所多しと聞く。
「偽の神体を渡して、本物は隠す」という話が、どれほど各地にあったのかは、この一文からは分からない。南方自身が「聞く」と書く伝聞で、件数は示されていない。それでも、氏子の側にも「書類には書かない手」があったことは、復社した村で本物の神体が戻っていたという話から読み取れる。
手続きの上では、神様は合祀先で祀られている。何も消えていないことになる。だが南方は、上山路村の氏子が合祀先まで往復五、六里の難路を歩かないと参れず、敬神の念が薄れて社費も納めなくなったと書いている。五、六里なら二十キロ前後(編集部換算)だ。神様はいるのに、通えなくなった。数字に出ない被害は、いつもそこだ。
戻った神様と、戻れなかった神様
合祀された神社が戻る、つまり復社した例は、南方の同時代の記述にも、戦後の研究にも出てくる。南方は、南富田村の金刀比羅社が、村民の承知しない訴えが続いた末に、県庁から復社を許されたと書く。西牟婁郡の芳養村では、由緒ある古社を全て合祀したあと、村一番の豪農が人気直しに、私的に諸社を「神体なしに」再興した、とも書く。「神体なしに」とあるので、神体は合祀先にあったままだったと読める。
| 区分 | その神社の状況 |
|---|---|
| 戻りやすかった | 名目上は合祀されても社殿などの設備を残していた。合祀以前の崇敬の土台(氏子の結びつき)が維持されていた |
| 戻りにくかった | 行政区画の統廃合や状況の変化で、崇敬の土台だった共同体そのものが消滅・変化した |
出典:Wikipedia「神社合祀」の整理をもとに編集部作成(原典の研究書は未確認)。
つまり、戻れるかどうかは、神様の格や由緒より、社と氏子がまだそこにいるかで決まったとされる。ただ、この整理はWikipediaの要約に依っていて、原典の研究書は今回読めていない。復社した神社に、合祀先から神体が実際に戻ったのか、新たに迎え直したのかを一般化できる資料は、確認できなかった。
芳養村の豪農は神体なしで社を再興したんじゃろ。神様がおらんのなら、社を建てても中身が空っぽじゃないか。
南方の書き方では、芳養村の再興は「神体なし」と断って書かれています。ですから、神様そのものより、それを囲んで集まる人の側が先に残っていた、と読むほうが素直です。戻れたかどうかが社と氏子のあるなしで分かれるという整理も、同じ方向を指していますね。
自分の町の神様を探すなら
「この小さな神社はいつなくなったのか」を調べる入口は、神社明細帳と、旧町村の役場文書の二つだ。調べ方:国立国会図書館サーチで「神社明細帳 地名」を検索すると出ることがある(国会図書館リサーチ・ナビの案内)。文部省分は国文学研究資料館に所蔵がある。
読み方:役場文書は自治体の公文書館や郷土資料館にあることがある(相模原市の例)。明細帳と役場文書を突き合わせる。
ほう。神様を探すというより、神様を動かした側の書類を探すんじゃな。
そうなりますね。ご神体の行方そのものは、書類より口伝や氏子の記憶に残っている場合が多いようです。ただ、それがどの村でどれだけ残っているかは、今回の資料からは分かりませんでした。調べるなら、地元の郷土史や氏子総代の方に聞くのが近道だと思います。
神様は書類の上では引っ越しただけで、置いていかれたのは、そこへ通っていた人のほうじゃな。……わしも、ずっと通っとった駄菓子屋が店じまいしたあと、同じ道を通る足がぱたりと止まったことがあるのう。
ソース
- 神社合祀に関する意見 - 南方熊楠(青空文庫) — 合祀令の内容、読売新聞を引いた社数、三重・和歌山の数字、小祠を川へ流した例、復社の例、神体の伝聞(本文を直接確認)
- 社寺書類と神社合祀 ~相模原町の旧町村文書から 展示資料目録 - 相模原市立公文書館 — 勅令第220号、1908〜09年の実施、相原村・田名村の文書の題名と日付(目録のみ確認、文書の中身は未確認)
- 神社を調べる - 国立国会図書館 リサーチ・ナビ — 神社明細帳の保管先(内務省・文部省・各府県、一部は国文学研究資料館)と検索方法
- 神社合祀 - Wikipedia — 勅令第96号、1914年までに約7万社、三重県の1903年10,524と1913年1,165、合祀の目的、復祀の整理(二次情報)
- 神社とエコロジー② - nippon.com(戸矢学) — 全国約20万社から12万社、三重約9割、和歌山3,700から790(二次情報)
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